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ホーム > 新刊案内 > 教育の目的とは何か

写真:教育の目的とは何か
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教育の目的とは何か

T.S.エリオット 著 / 臼井善隆 訳

四六判 214ページ

本体 2,600円+税

ISBN:978-4-657-11008-4

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作品概要

「教育」は定義できるか。(本文2ページより)

 ここで私が取上げようと思ふ問題を論じた最近の著書で、さる有名な聖職者が傾聽に値する次のやうな見解を表明してゐる。「教育者の殆どは、教育に關する文學者の半可通の議論なんぞを適當に無視しておけばよいのに、無闇に感心してしまふ。遺憾ながら、それは事實なのである。」斷つておくが、彼はこの警告に先行する文章で、さほど手嚴しいことを言つてゐる譯ではない。直ぐ前の文章で彼はかう述べてゐる。「もし、自然科學者、宗教家、自然論者、藝術家、人間關係に關心を持つ學生達、が結束して文學者と意見を交換する場を設け、健全な思想と言へるやうなものを復活するには如何なる教育が必要であるかを、一緒に考へ直すことができるならば、教育界にさほどの精神的混亂はなくなり、様々な方法で、また相互補完的な手段で、一つの眞實を求めてゐる人々の間に存在して然るべき協力關係を、より一層強固ならしめるであらう。」さて、私が藝術家なのか、あるいは、半可通の文學者なのかはこの文脈では判らない。有益な貢献と無知な干渉との違ひは、事實、紙一重であつて、何か言はうとすれば、危險を承知でものを言ふ以外に術はないのである。

著者プロフィール(編者、訳者等含む)

歴史的假名遣ひ (訳者あとがきより)

 私が歴史的假名遣ひ正漢字に固執するのは、それが正しい國語のあり方であり、我が國の文化傳統であると信ずるからである。それに何より、エリオット自身が、當時、英語の綴方(スペリング)を發音どほりにせよと主張してゐたバーナード・ショーをはじめとする「左翼進歩派」連中に對して、言葉は發音どほりに綴ればよいといふものではない、それは印刷された本のページで讀むものなのだと反論してゐるからである。これは、文字は音を表すものか、あるひは語を表すものかをといふ根本問題であり、「讀者の耳に音を聽かせるためのものか、その目に意味を讀みとらせるものか」といふ問題である。エリオットと同じく福田恆存も文字は讀むためのものと考へるが、それに對して「現代かなづかひ論者は、書くための難易ばかりを考へて」ゐる、そしてその結果、國語改革論者と文部省の役人共との結託によつて實現された新假名遣ひ、當用漢字では、いろは歌は意味をなさなくなり、国では國といふ語の成立ちも意味も理解できなくなつてしまつた。同樣に、英語のスペリングを發音通りに變へることは、古(いにしへ)のギリシャ語、ラテン語、フランス語、イタリア語、あるひはゲルマン語などの語源に通ずる道を斷たれることであり、永い歴史的變遷を經て現代に到つた英語といふ生きた文化を破壞すること以外の何ものでもない。(幸ひにも、文化傳統の何たるかを知つてゐる英國人は新スペリングなんぞを採用しなかつた。お陰でシェイクスピアの作品は、今もなほ四百年前に書かれた通りの見事な韻文で讀むことができる。が、我が國では、明治の作家のものですら原文のまま讀むことが出來なくなつてしまつた。)それゆゑ、今回の飜譯を正漢字、歴史的假名遣ひで出版できたことは洵に有意義なことであり、前回の『エリオット評論選集』では奏功しなかつたがゆゑに、私にとつては二重の喜びである。

目次など

 教育の目的とは何か
 The Aims of Education (1950)
   1 「教育」は定義できるか
   2 目的と目的との相互關係
   3 目的と目的との相克
   4 宗教の問題

 シェイクスピアとセネカの克己主義(ストイシズム)
 Shakespeare and The Stoicism of Seneca (1927)

 ハムレットとその問題
 Hamlet and His Problems (1919)

 ボードレール
 Baudelaire (1930)

 パスカルの『パンセ』
 The Penses of Pascal (1931)

 アーヴィング・バビットのヒューマニズム
 Humanism of Irving Babbitt (1928)

 ヒューマニズム再考
 Second Thoughts on Humanism (1929)

 譯者あとがき

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